教えのやさしい解説

大白法 430号
 
五種の妙行(ごしゅのみょうぎょう)
  五種の妙行とは、法華経の『法師品(ほっしほん)第十』に
 「若(も)し復(また)人有って、妙法華経の、乃至一偈を受持、読誦(どくじゅ)し、解説(げせつ)、書写し、此の経巻に於いて、敬い視(み)ること仏の如くにして」(開結 三八四)
と説かれる、受持・読・誦・解説・書写の五つの修行をいい、五種法師ともいわれます。 受持とは、教法・経文を受け持つこと。読とは、経文を見て読み上げること。誦とは、経文を見ずに暗(あん)じること。解説とは、教義を分明に解釈して説くこと。書写とは、経文を書写し広く伝えることを言います。
 法師とは、五種の行を自行化他(じぎょうけた)に亘って修する人をいいます。
 天台大師は、『法華文句(ほっけもんぐ)』に
 「此の品に五種の法師あり。一に受持、二に読、三に誦、四に解説、五に書写なり、大論に六種の法師を明かす。信力の故に受け、念力の故に持つ、文を看(み)るを読と為し、忘れざるを誦と為し、宣伝するを説と為し、聖人の経書解し難ければ須(すべから)く解釈すべし。六種の法師は、今経には受持を合して一と為し、解説を合して一と為し、読誦を合して二と為し、書写を足して五と為す」
と、『法師品』の五種法師と『大論(大智度論)』の六種法師の開合(かいごう)の異(こと)なりを挙げ、六種を五種に整足して法華経の行相を明かしています。
 いずれにしても、五種の妙行は正像熟脱(しょうぞうじゅくだつ)の修行法です。末法の衆生が五種を行ずることは、その能力において堪(た)えられないばかりか、成仏も叶いません。
 日蓮大聖人は『御義口伝』に
 「五種の修行の中には四種を略して但(ただ)受持の一行にして成仏すべし」(平成新編御書 一七九五)
と、末法は受持に他の四種の義を具え、受持の一行をもって要行とされています。
 総本山第二十六世日寛(にちかん)上人は『観心本尊抄文段』の中で、五種の修行について、各別に修することを別体の受持とし、五種それぞれに通じ、しかも五種を総するものを総体の受持としています。
 さらに、『末法相応抄(まっぽうそうおうしょう)』では五種の妙行について、一字五種の妙行・要品五種の妙行・略行五種の妙行の三義に立て分け、
 「廣く之れを行ぜずと雖(いえど)も五種の妙行を闕(か)くこと無し、一部読誦の輩は還って闕くる所有り」(六巻鈔 二七二)
と、総体の受持に三義のすべてが具わることを明かし、正像熟脱の五種の妙行を破折されています。
 すなわち、日蓮大聖人の仏法における受持とは、総体の受持であり、ここに一切の修行の意義を欠けることなく含め説いているのです。
 『観心本尊抄』に
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(平成新編御書 六五三)
とあるように、末法の衆生は、仏法の万行万善の功徳を具えた久遠元初・文底下種の法体である大御本尊を正しく受持信行することによって、なんの辛労(しんろう)もなく、即身成仏の仏果を得ることができるのです。